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◆七草粥Ⅱ
七草粥の来歴を調べている中で、新たに2つの事を知ることができた。
1つ、
我々になじみ深い七草粥が、今のスタイルに確立されたのは古くても鎌倉時代、
新しければ江戸時代である点。
と云っても、先にご紹介した通り、人日(又は七草)の節句は、
古代中国で誕生した農暦(旧暦、太陰太陽暦のこと)に基づくが、
既に平安時代の貴族社会で七草の羹(あつもの)風習として一般的だった*ことからして、
恐らく日本が農暦を取り入れたのは、それ以前だったのにほぼ間違いない。
2つ、
今の七草粥スタイルに落ち着くまでに別の七草、
米、粟(あわ)、黍(きび)、稗(ひえ)、蓑(みの:六折草のこと)、胡麻、小豆が存在した点。
粟、黍、稗は今日では鳥や小動物のエサとして知られる、いわゆる雑穀類だが、
つい最近の戦前戦中(時に戦後復興期)まで、重要な食料源だった。
云うなれば、この七種は日本土着の七草であり、
先の貴族文化に取り入れられた中国伝来の七草の羹が支配層の物で、
かつ1月7日、人日の節句由来の風習であるとするならば、
こちらは被支配層(一般大衆)の物で、
小正月、すなわち1月15日の左儀長(どんど焼きとも)当日に食べる小豆粥に当ると云う。
それが時代が下り、
平安末期~鎌倉時代の武士の台頭によって支配層の転換が起こり、
それまでの旧支配層の七草羹風習と、新支配層(先の被支配層)の小豆粥風習とが融合し、
七草粥風習が誕生したと見ることができそうだ。
しかし一般大衆層まで七草粥が広まるのは、稲作の安定収穫と民衆文化の成熟を得る
近世、江戸時代(それも中期以降)まで待つ必要がありそうだ。
*清少納言の「枕草子」、紀貫之の「土佐日記」、菅原道真の「菅家文草」に記述が見える。
(2008.1.10)
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